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【2009年11月25日水曜日 チケットを買いに行く 】
● 「おくりびと:Departures」
月刊の日本語新聞に「おくりびと」が上映されるという大きな記事が出ていた。
来月の10日から24日までの2週間。
ということは半月後になる。
さっそく、前売り券を買いにいった。
でも売っていなかった。
当日買ってください、とのこと。
場所はアートセンター。
日本風にいうと市役所に併設された文化センター劇場といったところ。
以前にここで見た映画は「千と千尋の神隠し」であった。
が、このアニメ、その前に映画館で上映されていた。
ムスメが新聞を見ていて、
「千と千尋、やってるよ」
と言う。
英文タイトルなので分からなかった。
もちろん「Sen & Chihiro」ではない。
そりゃ、見逃してはならない。
すぐに、その映画館に出かけていった。
が、らしいポスターが一枚もない。
確か映画祭のアニメ部門で賞をもらっており、そこそこ有名になっていた映画である。
なんで、だろう。
ムスメに「本当にやっているのか」
ムスメいわく、「大丈夫だよ」
チケットを買う。
ムスメが一瞬驚いたように振り向く。
そしてプラスチック板の向こうの係とおしゃべりをはじめた。
やはりこれはやっていないようだなと一瞬思う。
が、チケットを手にしてきた。
「やってたか」
「やってるよ」
「確認したのか」
「声をかけられたんだ。カウンターの人、ハイスクールの同級生だった子だよ」
ガラガラ。
ウイークデイの3日間だけ。
それも午前と午後の各1回。
合計6回の上映。
肝心の夕方から夜にかけては、別の映画。
ちょうどその時期はサマーホリデー中。
子どもがはいるであろう週末は別の映画。
つまり、「千と千尋」はウイークデイの時間つなぎの映画だったのである。
この国に知性を求めてもせんないことだが、アニメくらいはわかるだろう。
ましてこの映画、英語版である。
ここではアニメはダメなのだろうか。
でも、以前ブリスベンでやった「ジャパニメ」は満員でチケットを前もって手に入れていたからよかったものの、そうでなかったら見れなかった。
ただ、このときは夜の部のみでしかなかったが。
ちなみに、このときの観客は学生といった人種が大半であった。
その「千と千尋」が商業上映から数カ月後に、このアートセンターで上映された。
やはり2週間くらいではなかったかと思う。
見にいった。
やはり、がらがら。
これはしかたがない。
なにしろ、ヒマな老人のこと、出かけるのはウイークデイの昼間である。
一般人は働いているか、学校へ行っている。
なにも前売りチケットなど買うこともないということである。
よって、売っていない、ということになるらしい。
まあ、当日いけば入れるということだろう。
あせって行った、私が無知であったというか、学習機能がボケたかである。
行ったついでなので、パンフレットをもらってきた。
この1枚だけ。
他の映画は壁にポスターが貼ってあるが、そんなもの一切なし。
「千と千尋」のときもそうだった。
アカデミー賞受賞などは屁の役にも立たないようである。
見たい人は勝手に調べてやって来なさいということ。
日本の映画などは、ついででやるだけです、といったところだろうか。
ペラペラなビラですが、せっかくですのでコピーしておきます。
ところで、この英文タイトル「DEPARTURES」ですが、これ「往く人」であり「送る人」ではないようにおもえるのだが。
● 花いろいろ
[◆].
日豪プレス[2010年01月号]から。
『
』
【2009年12月10日木曜日 「おくりびと」】
「おくりびと」を見にいってきた。
今日から2週間。
最初の11:40開演に出かけていった。
もちろん、シニアカードを持って。
普通なら「13ドル50セント」。
老人カードの威力で「9ドル」。
「33%off」となった。
初めてこれを使った。
予約を受け付けないわけである。
入場者、25人か26人か、そんな程度。
日本人は女性の4人組、御夫婦、それに私の計7名。
平日の昼間ではそうなるだろう。
ちなみに、映画は日に4本開演され、頭の3回は「おくりびと」、最後の一番入場を見込める夜の部は別の作品。
そんなもんだよ。
この映画、泣ける。
数回、涙を流した。
それに映像がいい。
実に詩的だ。
これが日本!、といった感じ。
クリアーでゴテゴテしさがない。
いい映画だ。
が、である。
最後、エンデイングがいけない。
「
主人公が子どものとき、父親は女と姿を消した。
よって主人公は父親の顔を知らない。
その父親が死んだという報が入り駆けつける。
死んだ父親の顔を見ても、それが父親かどうかわからない。
そして納棺を行う。
遺体を処置しようとしたとき、しっかりと握った手を開いていくと、小さいとき主人公が父親に預けた石文がころげおちる。
父親は、これを握り締めながら死へ旅立ったということである。
この衝撃により、死化粧を施していく主人公の脳裏に小さい頃の父親の顔の記憶が蘇ってくる。
その記憶の顔をもとに死化粧を進めていく。
」
理屈でいくとこれでいい。
だがこれでは、最後はありふれた小説にあるような作り話の三文小説親子愛物語になってしまう。
父親が石文を握っていたことで、父親が発信者となった親子物語となってしまっている。
映画はこれまで、主人公が発信者であり、そこからの印象がストーリーを作ってきたはずである。
主人公が納棺師という特殊な職業につくことで、研ぎ澄まされてグイグイと引っ張ってきたはずである。
ところが、エンデイングでゴロンとひっくり返って、ごく当たり前のどこにでもある子ども風の受信者にすり替わって終わってしまっている。
何とも後味がスッキリしない。
納棺師の意味もないし、おくりびとの意味もはっきりしない。
精神分析よる記憶回復物語と大差ない。
もし、ストーリーを作るとしたらこうなるだろうか。
「
手から転げ落ちた石文を見ても、やはり父親の顔は浮かばない。
ぼやけたままである。
化粧が進まない。
何を元にして遺族(この場合、主人公本人になるのだが)の納得できる顔を作ることができるのか。
残っているのは父と子という血のつながりだけである。
そして死化粧を終える。
そこで作られたもの、出来上がったもの、それが主人公にとっての唯一の父親の顔であり、それ以外に有り得ないものであった。
このとき、初めて主人公は父親の顔を見、そして知ったことになる。
「オレはおやじの顔を作った。
おやじは、オレの作った顔で旅立った」
」 のだと。
これではじめて「納棺師」となり、「おくりびと」になるはずである。
違うだろうか。
ただし、こういうストーリーを作ると世界で賞はもらえない。
アングロサクソン&ローマンというのは、神と契約を交わした民族。
人と人との関係が希薄。
神との関係を人間に移し変え、感情を契約と役割で補強した民族。
人を自然生物の一種類とみるか、神が作りし種類とみるかでスタンスががらりと変わる。
愛を神聖なるものとして、常に神を通して評価し認められた形の愛しかもてない。
「こうあるべきである」、という愛しか知らない。 よって常に人としての愛に飢えている。 常に「愛の飢餓状態」にある民族といって差し支えない。
ストーリーは過剰に男女の愛が、そして親子の愛が強調されていないと受けない。
いつも、契約とは裏腹にくっついたりひっついたりしている民族。
己が間違いを映画の中で晴らそうと躍起になっている民族。
それに感動することによって、自分を浄罪しようとしている民族。
世界で賞をもらうには、そういう民族人種の精神にフィットするように作り変えねばならない。
その分、わざとらしさが画面を覆ってしまう。
この映画、最後の部分をのぞけば、そのわざとらしさがなく、ひじょうにいい映画だ。
泣ける。
日本版と世界版の2つ作ってくれたらなと思ってしまう。
● 花いろいろ
[◆].
日豪プレス[2010年01月号]から。
『
作詞 ― 「おくりびと」
作詞は意外と“書くぞ”と思って書く方なんです。
いい景色とかを見て、“あ、今いい歌詞が頭に浮かんだから書き留めておかなきゃ”みたいな感じではあんまりないんですよね。
私の場合はだいたいラーララー♪と鼻歌でメロディーを作って、トラックっていうのをもらうんですけど、それに合わせて詩を書きます。
「おくりびと」の場合は、まず先に映画があって、そのストーリーがあって、さらにメロディーも自分のじゃない。
映画もいいし、音楽もいいし、あとは歌詞なんだけどどうする ? と、最後の責任を振られた感じがして、ものすごいプレッシャーでした。
しかも久石さんの曲をメチャメチャにしたら、それこそ“ヤバイ”みたいな。
今回映画祭で久しぶりに歌うので、今朝、空港からホテルに向かう車の中で聞いてきたんですよ。
我ながら“いい歌詞だなぁ”と思いました。
』
★ 「おくりびと」主題歌
http://www.dailymotion.com/video/x6rzzf_ai-tv-live_music