2009年11月26日木曜日

「シニアカード」を受け取る

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 昨日、映画のチケットを買いにいくとき、ほくほくして持っていったものがある。
 それが上の「シニア・ビジネス・デイスカウント・カード」。
 つまり「老人カード」。
 貰ったはいいが、まだ使ったことがない。
 さっそく試してみようと持っていったのだが。
 残念なことに、使えなかったわけである。

 内容は割引カードである。
 だいたい5%から15%くらいの割引がある。
 電車、といっても年に1回も乗らないのだが。
 映画館のデイスカウント、映画館によってちがうが10%くらいかな。
 ちょっとしたレストランでの食事の割引、だいたい5%くらい。
 わずかなものである。

 日本では「シルバー・カード」と呼ばれているようで、だいたい65歳以上のようである。
 自治体がやっているため、自治体によって定義が異なり、またサービスも異なるようである。
 65歳というと「老齢年金」が支給される齢。
 最近は「老齢」とする年齢が60歳から65歳に変更されたようである。
 ここでもほぼ同じ。
 老齢予備軍が60歳以上で「シニア・ビジネス・デイスカウント・カード」となる。
 65歳以上になると自動的に単純な「シニア・カード」となる。
 主体は「Queensland Goverment」、つまり「クイーンズランド共和国政府」。
 つまり、政府がやっている。

 いつも通っている図書館の受付カウンターの横にデンと座っているものがある。
 それが下のパンフレット。



 「シニア・カードを作りませんか」というご案内。
 60歳というと老人、「
どうもやはりなんといっても」抵抗がある。
 図書館にいくたびに、このパンフレットを横目で見て「誰が作るもんか!」と反抗していた。

 だが最近、老齢年金がもらえる齢に近づきつつあり、ああ、「
我は老人なり」と思うようになってきた。
 もともと、そうは思っていたのだが、物的なモノ、つまりこの場合は「カ-ド」で明証化されるのに、反発を感じていたのである。
 年金をかけはじめたのが非常に遅く、またこちらに住んでいる期間もそこそこ長い(これを「カラ期間」というのだが)ので、掛けた金額が少なく、よって実際にもらえる金額もわずかなものに過ぎない。
 せいぜい、夜なめるワインを、ゴクンと飲める程度のものにしかならない。
 しかし、もらえるものは貰いたいと思うようになり、ならば一歩先んじてシニア・カードもいただいてしまおうということになったのである。
 つまり、「
齢とともに意地汚く」なってきたわけである。

 この紙の裏が申し込み用紙になっており、これに書き込んでメデイケアカード(保健カード)のコピーを添えて申し込んだ。
 だが、ダメだった。
 「証明をもう一つつけてください」といってきた。
 ここは戸籍がない。
 よって、さまざまな手段で「
自分が自分である」という自己証明をしないといけない。
 そして証明し続けないといけない。
 これ社会心理に及ぼす影響は大きい。
 生まれたときから、すべての人が社会に自動的に組み込まれ、自分で証明する以前に、自分が社会の一員であることが自明になってしまっているシステムと、生まれたときから、すべての人が常に自分を社会に組み込む努力を課せられているシステムとでは、まるで社会意識が違う。
 常に「I think ---」を主張しなければならない世界、それを強制される世界と、何もせずとも「あなたは我が同胞ですよ」という社会では全くことなる大衆心理をもつことになる。
 つまり、見かけは同じでも、社会心理はかけ離れているということに、注意しないといけないということである。

 運転免許証のコピーを添えて、再提出した。
 しばらくしたら、カードが送られてきた。



 ついに私も「
老人証明」をしてしまったというわけである。
 そのうち使うこともあるだろうと、安心してその手紙を引き出しにしまった。


 話はこれで終わらなかった。
 またしばらくたって、カードが送られてきたのである。
 なんで?



 前のは「エラー」がありましたので破棄してくださいとある。
 
エラー
 机からひっぱりだして眺めてみた。
 確かに、「
エラー」である。



 でも、このエラー、共和国政府のエラーにしてはちょっとというより十分にお粗末である。



● 花いろいろ




【真っ赤にもえた、太陽だから】





[◆].
 ちまたで話題の「ツチヤ本」に面白いエッセイがあった。 




 60歳以上の扱い方
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 国際紛争が絶えないのは嘆かわしいことだ。
 それに劣らず嘆かわしいのは、誰も私のことをいたわろうとしないことだ。
 なぜいたわる気持ちがもてないのか。
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 その私に転機が訪れた。
 行きつけの食堂で
 「
60歳以上は5%割引
 というサービスを始めたのだ。
 客のほとんどが若者だから、私のためのサービスのようなものだ。
 願ったりかなったりだ。
 だが、なぜか素直にサービスを受ける気持ちになれない。

 ひっかかるのは「60歳以上」というところだ。
 もし「成績トップなら割引」「将棋の有段者は割引」「けん玉日本一は割引」というなら、誰でも名誉なことだと思って喜んでサービスを受けるだろう。
 だが、
 「体脂肪率30%以上は割引」
 「ハゲなら割引」
 「成績がビリなら割引」
 というサービスを人は受け入れるだろうか。
 「老人割引
 もこれに近い気がする。
 関西人に聞いたところ、
 「5%でも3%でも結構な話だ。
 もしハゲ割引があったら、ハゲの関西人はみんな喜んでサービスを受ける」
 と言う。
 信じられないことだが、関西人は老化もハゲも名誉なことだと思っているのだ。
 関西人はどうでもいい。
 もともと理解を超えているのだ

 問題は私だ。
 私はふだんいたわって欲しいと願っているのに、いざいたわってくれるとなると抵抗をおぼえる。
 ちょうど、仕事が忙しくて休みがないとこぼしていた人が「明日から会社に来なくていい」と言われたときのようなとまどいをおぼえるのだ。
 あるいは、空を飛ぶ鳥になりたいと願ったら、本当にカラスにされたような気持ちなのだ。
 自信がなくなった。
 私は本当にいたわって欲しいのだろうか。
 たぶん、いたわってもらうのは、私は誇りが高すぎるのだ。
 なにより抵抗をおぼえるのは、5%割引という点だ。
 もし、50%割引なら喜んでサービスを受けられるところだ。

 学生が言った。
 「いたわるって、どういうことですか」
 「お茶を出すとか、転んだら笑うことなく<大丈夫ですか>と気遣うとかだ。
 絶対に<いたぶる>と混同してはならない」
 「老人割引に抵抗感があるって、特別扱いされることに抵抗があるんですか」
 「まあ、そうだ。
 老人の特権だからといって、老人ホームに入りたがったり、介護されたがる人はいないんだ」
 「それなら、年金はいらないんですか
 「-----」

 どう扱われたいのか、自分でもわからなくなってきた。



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