
いろいろ忙しいので、一日一区間で箱根駅伝をみている。
今日はその3区を見た。
ここに「今昔物語」というのが挟まっており、これが少々驚き。
というのは前稿で、藤田、佐藤、今井、柏原と福島出身だが、なにかあるのであろうかと書いたばかりだが、あたかもその問に答えるようなエピソードが出てきたのである。
この疑問はマスコミ自身ももっていたようで、ちゃんと調べてくれていた。
この今昔物語のシメに出てくるシーンには、なんとなんとこの4選手の映像がぴったりあるのである。
つまり、「なぜ、福島が?」
そういう疑問を解明しました、という形で終わっているわけである。
金栗四三が箱根駅伝を創設したとき、その第一回レースの山上り5区を走った早稲田のランナーがいた。
三浦弥平、福島県出身。
このとき区間3位(といっても参加は5校、よって速くもなく遅くもなかった)。 オリンピックへ出場する、アントワープ・オリンピック。 そしてドイツに8年間留学。 帰国して早稲田でのコーチを求められたが、それを断り福島に帰り、スポーツ施設をそろえたオリンピック村を創設する。
1971年永眠。
この人物を記念して、福島には「三浦弥平ロードレース大会」というものがある。
この小学生の部で優勝したのが、今井正人というわけである。 「なるほど、それで福島というわけか」
福島というのは隠れたスポーツ大国だったのです。

Wikipediaで見てみる。
『
三浦弥平
家は大きな農家の出だったものの幼いころから病弱だったために小学校時代は病欠で留年の経験もある。
白石中学校(現宮城県白石高等学校)進学後も、病欠しながらもランニングにより体を鍛え、秋の運動会には1000mで優勝を果たし陸上の道を志す。
早稲田大学進学後は、競走部に所属し関東学生大会や日本選手権大会など数々の大会で優勝を飾ったほか、第1回の箱根駅伝にも出場した。
1920年にはアントワープオリンピックのマラソン日本代表に選ばれ24位になっている。
その後ドイツへと留学しベルリン大学や、ドイツ体育大学にて体育学を学んだ。
ドイツ留学中の1924年パリオリンピックでも代表に選ばれたが10000m、マラソン共に棄権となっている。
帰国後の1932年には宮城県伊具郡筆甫村(現丸森町)オリンピック村を建設し、スポーツの普及に尽力した。
1980年からは伊達市内にて毎年彼の業績を記念した、三浦弥平杯伊達市梁川ロードレース大会が開催されている。』
写真を。
『
うつくしま電子事典
【梁川町】 三浦弥平(みうらやへい)
http://www.shidou.fks.ed.jp/jiten/cgi-bin/jnbt.cgi?cd1=%CE%C2%C0%EE%C4%AE&cd2=%BB%B0%B1%BA%CC%EF%CA%BF&id=view

一番左が三浦弥平氏
』
さて、昨年4月に東洋大学の監督に就任した酒井俊幸は福島県の高校の先生であり、この県大会で見い出したのがまだ無名の柏原竜二。
そこで早速、出身校である東洋大学への進学を勧めたという。
ところで、この酒井であるが、テレビ(といっても、ビデオだが)で見たことがある。
もちろん、箱根駅伝の「東洋大学エースランナー」として、と書きたいのだがそう書けないところにストーリーがある。
箱根駅伝の前日の元旦には実業団駅伝が行われる。
上州赤城降ろしの乾燥しきった空っ風の中を走る駅伝である。
昔のこと、ここに一人のハンサムボーイが出現した。
それが酒井俊幸。
驚いたことに東洋大学出身という。
実業団駅伝(ニューイヤー駅伝)を走るランナーに東洋大学出身者がいたとは思わなかった。
もちろんいてもいいのだが、所属している実業団があのコニカである。
ここは強豪である。
なにしろその頃の優勝チームでもあった。
コニカとはオリンピックで銅・銀を獲り、3回目には8位に入っている片言の日本語をあやつるワイナイナがいたチームである。
オリンピック史上3回マラソンに出場し、3回とも入賞という記録をもつランナーはワイナイナしかいない。
東洋大学というのは「史上最も遅い大学」といわれるほどに優勝と縁のないチーム。
優勝したのは昨年、出場67回目にしてヤットコサのこと。
3位内に入賞したのが50年前にたった1度だけあるというとんでもない記録を持ったチーム。
いいかえれば、「万年下位チーム」という名はこの大学のためにあったようなもの。
よって、東洋大学出身の実業団ランナーなんてものはありえようがなかったし、聞いたこともなかった。
それが強豪コニカ(そのころはコニカといっていた)にいて、元旦の駅伝を走っていたのである。
なら箱根での輝かしい記録を引っさげてコニカに入ったかというと、これがひどい。
新聞にみるように、11位、13位、12位、欠場。
コニカのランナーといえばテレビのアナウンサーもちゃんと紹介してくれる。
このダメランナーがなんと優勝チームのコニカでお正月のテレビに映っていたのである。
まあ、よく名門コニカに入れたものだとテレビを見ながら呆れていた。
いったいどうなっている。
が、この彼氏、テレビ映りのいいハンサムボーイであった。
もし記憶に間違いなければ、次の年にも走っており、このときは鼻血を出していた。
なんともやきもきさせるランナーであった。

ちょっとそれるが、箱根駅伝でハンサムボーイといえば、山梨学院の尾方剛。
優勝したとき大手町のゴールテープを切ったランナー。
このとき解説の横溝さんが「アイドルみたい」と表現した選手である。
が、尾方はこの重圧で脱毛症にかかり、アイドルの姿は見る影もなかった。
よって、箱根駅伝はこの1回の出場のみであった。
が不屈の尾方。
その後中国電力に入り、世界陸上へとコマを進めている。
中国電力には三羽カラスがいた。
油谷繁、尾方、そして佐藤敦之である。
この油谷だがゴールドコーストマラソンのハーフで優勝(2002)している。
このときの表彰式を見たことがある。
テレビでみる油谷はなんとなくごついが、目の前でみる油谷はじつに好青年であった。
ニコニコしていて柔らかな味があって、横にいた娘いわく、
「カワイイー」。
コニカが優勝するちょっと前までは常勝軍団旭化成と、それを追うS&Bの熾烈な争いがあった。
後半のエース区間では旭化成の川島伸次とS&Bの花田勝彦のレースが印象に残っている。
走り終わったあと川島が、
「猛獣に追われる小動物のように怖くて後ろを振り向けなかった」
とインタビューに答えていた。
川島はその後、サブテンランナーとなりシドニーオリンピックのマラソンを走っている。
ちなみに彼は1991年のゴールドコーストマラソンの優勝者でもある。
新興大学は別にして、大学チームの監督やコーチはその大学の出身者がなるものである。
東洋大学は古い大学なので箱根駅伝参加者も多く、人材にこと欠かない。
が、どうしても誰がやっても、「万年下位チーム」という名誉から逃れられない。
なにしろ、名のあるランナーがいない。
簡単にいうと名のあるランナーとはだいたいにおいてしっかりとしたトレーニングを実業団で積み、独自のランニング哲学を持っているランナーといっていい。
東洋大学にはその実業団で鍛えられるほどまで成長したランナーがいないのである(いるのかもしれないが、聞こえてこない)。
ために体系的にランニングを教え込める監督コーチがいないのである。
それがゆえの「万年下位チーム」である。
このビッチリと骨の髄まで染み込んだ汚名を返上するためにはどうしたらいいか。
もう内部の手にはおえない。
そこまできていたのである。
結果として、ドラマチックなことをやった。
外様を入れたのである。
しかたなく、という面もあったが。
白羽の矢がたったのが川島伸次。
彼は日体大の出身である。
旭化成で培ったトレーニング方法、ランニングの考え方、そしてサブテンランナーとしてオリンピックへいった自信、それらに東洋大学の夢が託されたのである。
大学には1年生から4年生までいる。
よって、改革の花が咲くには数年の月日が必要である。
意識が浸透し、いよいよこれからというとき、不祥事がおこる。
ここで川島はスッパリと監督を辞任する。
内部出身なら不祥事もとりたてて大きな問題にはならない。
が、外様ではそうもいかない。
あくまでもいっときのお客様。
いわゆるお雇い教師みたいなもの。
引き際を心得ておかないと、古き伝統校では身の置き場がなくなる。
練習の方法から日ごろの心構えまで、走る者にとって必要なもの教え込むものは、すべて教え込んだ。
あとはそれがルーチンワークとして受け継がれていけばいいはずだ。
川島はそう考えた、と思う。
さて後任だが、グルリと見渡して、自分の知っている顔で、東洋大学出身者にして実業団のメシを食えたランナーはたった一人しかいない。
酒井俊幸のみ。
川島はためらわずに酒井を後任に指名する。
そして東洋大学は、去年につづいて二連覇を達成する。
「万年ダメチーム」が華麗に「駅伝強豪チーム」に変身を遂げたのである。
てなところが、東洋大学物語になるだろうか。

さて、ビデオを見終わっての感想を。
前半はなんといっても明治大学ですね。
1区から4区までトップを独走する。
古豪ではあるが、最近復活してきた大学。
よって、箱根駅伝にはあまりなじみのない大学。
その古豪が眠りからさめ、いよいよ動きはじめたか、といったところ。
平らな地面の走りは習得した。
これから次のステップである箱根の山の制圧にとりかかれば話はグーンと面白くなる。
なにしろ第一回からの出場校であり優勝は7回とあるからキャリアは十分。

後半は職人芸、王者駒澤大学。
総合優勝はさらわれたが、ちゃんと「復路優勝」の名誉を刻んでいる。
層の厚さは抜群。
でも駒沢もしばらく前までは、シード権をとれるかどうかで一喜一憂していた東洋と似たり寄ったりのチームであった。
そこに現れたのが藤田敦史。
ここから大八木コーチを軸に駒澤大学の進撃が開始される。
でも藤田はその4年間のなかで「優勝」の文字を見ることはなかった。

もう一校を。
青山学院大学。
昨年33年ぶりに復活出場した大学。
青山学院といえば立教大学とならんで、ミッション系のお坊ちゃま、お嬢さま学校の雄。
駆けっこなんて泥臭いことは似合いそうもない大学。
ビリッケツでゴールした昨年とはうって変わって復活2年目の今年、なんとあっさりとシード権を獲ってしまった。
底知れぬおそろしさ。
ちなみにもう一つのお坊ちゃま大学である立教はここ40年ほど出場していない。
箱根駅伝参加回数は青山学院15回に対して立教は27回と倍近く多いのだが。
復活はなるだろうか。


箱根駅伝はいつ観ても楽しいです。
そして最後に一言、「5区変更絶対反対」。
この5区が「明日の箱根をつくる」。
「5区こそ希望の星」。
三言になってしまった。

● 花いろいろ