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「エボルタ、 東海道をゆく」
公式ビデオをまとめていきます。
『
2010/9/23~2010/9/26
エボルタ 東海道五十三次-道中記:: その1
日本橋-品川-川崎-神奈川-保土ヶ谷
』
★ 品川駅を過ぎて八ツ山橋を越えて1号線から折れて左に入っていくと昔の品川宿。
あっちにもお寺、こっちにもお寺、品川ってお寺の多いところだ、というのが印象。
宿を抜けてまた1号線に交わるところに会ったのが、「鈴ヶ森刑場跡の碑」、なるほど了解。
[◇ 10月15日]
この配信方法、さっぱりまったく分からない。
今日(10月15日)は興津についたという。
道中記の見通し、真っ暗。
「記」とは経過を記すということだ。
まるで記にならない。
これは、ダメだ!
勝手にお行き!
「三条大橋で待っているから」
と、書きたいのだが、いまのところ日本に行く予定はない。
でも、京都三条到着のシーンはしっかり見てあげるから。
出発と到着のみ。
中抜きの道中記になりそうである。
ということは、カンペイのアースマラソンというのは実にサポートがしっかりしていて、日々のダイジェストが待ち遠しく楽しみになるようにできている、ということでもある。
電通がやっているようだが、やはりお金のかけ方がちがうのかもしれない。
[◇ 11月11日]
もうそろそろ京都到着頃かなと思ってインターネットを覗いてみた。
「石薬師宿に到着しました」とあった。
ここには石薬師寺というお寺がある。
東海道53次の中で広重の絵をぴったり一致していたのは、丸子宿と石薬師宿。
丸子宿というのはトロロが有名なところ。
そのトロロを食べさせる店がある。
広重の絵はこうある。
これとそっくり同じ店が40年も昔にあったのである。
立て看板もこれとそっくり。
素直に言えば非常にみすぼらしい佇まいであった。
でも前だけ。
この看板の後ろあたりから店に入って、それもどんどん奥に入って、ちょっと階段を上がると広い部屋がいくつかあって豪華広々。
そこでトロロご飯を食べたのである。
朝方のこととて、客は私一人であったが。
つまり、店の前は広重の面影を残して奥に座敷を建て増ししていったようであった。
現在はどうなっているかというと、インターネットでみるとこうなっている。
まるで広重の風情はない。
石薬師宿だが、私の記憶の中には石薬師寺が広重の絵にあったように思っていたのだが、実際は違っていた。
下がどうも石薬師寺だと思うが、もっと手前、参道の入るところからの絵があって、それがぴったり細部まで一致していた。
どうもここの和尚が広重の絵に合わせて保存しているのではないかとその場で思った記憶がある。
が、いま調べてみると広重の絵には石薬師寺は描かれていない。
あれはどうなっていたのであろうか。
不思議だ?
エボルタと一緒に若き日の東海道道中記を書いていこうと思ったが、嫌がられてしまった。
あと京都まで何日だろう。
これまでの公式ビデオをまとめておきます。
『
2010/9/27~2010/10/03
エボルタ 東海道五十三次-道中記:: その2
保土ヶ谷-戸塚-藤沢-平塚-大磯
』
『
2010/10/04~10/07
エボルタ 東海道五十三次-道中記:: その3
大磯-小田原-箱根
【箱根チャレンジ篇】
注).箱根山中でstop
』
横浜の次は茅ヶ崎だった。
平塚まで行きたかったが、足が動かず断念。
泊まりは小田原の友人宅。
3日目は箱根湯本まで。
同じくその日も小田原泊まり。
さて4日目、いよいよ箱根を越える。
東洋大学の柏原君ならいとも易々と登っていくであろうが。
湯本で左に折れ、橋を渡って旧道に入る。
国道は車で大変なのだが、こちらはまれに通るくらいの交通量しかない。
エッチラ登っていく。
畑宿に着く。
ここには箱根寄木細工を作っている小さな工場が数軒あった。
どこの家の前も、木材のかけら、クズなどが山のようにおかれ木の匂いが一面立ち込め、家の中からはブーンというモーターの音が聞こえていた。
ここを過ぎると、いよいよ箱根の石畳。
今は整備されているようだが、あのころは1m程の小道で石畳の上はうっすらと草が茂っていた。
国道を横切ったり並行したりして進む。
と、一軒の茶店がある。
甘酒茶屋。
みすぼらしい茶店。
なんたってお客さんなんていない。
おばあさんが一人でやっていた。
数年前にやっと電気が通じたというところ。
今はというと、大繁盛らしい。
箱根でトラックに声をかけられた。
「乗っていかないか」
そういうわけにもいかない。
『
2010/10/08~10/10
エボルタ 東海道五十三次-道中記:: その4
箱根-三島-沼津
』
「三島女郎衆はのーえ、三島女郎衆はのーえ、」の三島だが。
箱根を越えて下りに入るとグーンと楽になり、あっという間に三島を過ぎて沼津まで行ってしまう。
ということは、三島泊まりはどうもこれから箱根に向かう人が利用するようである。
箱根まではどちらかというと土地勘のあるところ。
箱根八里を越えると、もう他国。
いよいよ「未知の道」を歩いていくことになる。
泊まりはというとだいたいユースホステルか友人宅。
どうなるかわからないのでスケジュールはない。
その日の夕方、電話をいれて泊まれますか、と聞いて満員でダメとなれば商業宿に止まることになる。
そういう宿が各宿場には残っていた。
フトンがくさくて気持ち悪かったところもあったが。
『
2010/10/11~10/13
エボルタ 東海道五十三次-道中記:: その5
【箱根リベンジ篇】
小田原-箱根
(前回は「大磯-小田原-箱根山上り」の長丁場で失敗。
今回は小田原からの箱根山上りに短縮して挑戦)
沼津-原-吉原
』
吉原に入る。
街の真ん中に「吉原ステーション」というのがあった。
ステーションというから駅があるのかと思った。
私鉄でも通っていて、富士山方面へ行かれるのだろうと。
が、ステーションはステーションでもバスステーション。
大きなバス発着所であった。
『
2010/10/14~10/17
エボルタ 東海道五十三次-道中記:: その6
【ガンダム訪問篇】
吉原-蒲原-由比-(薩埵峠)-興津-江尻ー府中
』
由比という街。
由比正雪の出身地ということになっている。
旧道を歩いているときにやる仕事がある。
家の表札をみていくことだ。
あるところに固まって同じ名前があることがある。
こういうところは親戚一族で団結力が強いところである。
東海道では唯一、この名前の塊に出会った。
それがここ由比。
ではその名前とは「望月」姓。
由比を過ぎると、難所「薩埵峠」へ入るのだが。
?????
前の稿でここでカメラを自分に向けて写真を撮っている。
この峠、この頃、道がなかったはずである。
旧道沿いにいくと突然道が消えてしまった。
道がないから難所?
目の前の傾斜面に広がるのはみかん畑。
確かに海沿いに国道一号線ができれば、崖っぷちの小道は消えてなくなる。
そしてみかん畑になってしまった。
が、エボルタではちゃんと道がついている。
40年の歳月は道を作ってしまう。
どうするか。
どうするってどうしようもない。
農家の方、ごめんなさいと思いながら、見つかって怒鳴られるのではないかとこわごわと、みかん畑を踏み荒らして横断してしまった。
いったいこれは何処へつながるのかとんと見当つかなかったが。
みかん畑を走破すると興津に入る。
ここにあるのが清見寺。
昔、徳川家康が今川に人質になっていたとき寝起きしたのがこの寺と言われている。
少年時代の家康を偲んで、この寺の縁側を借りて、昼ご飯を。
『
2010/10/18~10/21
エボルタ 東海道五十三次-道中記:: その7
府中-丸子-岡部-藤枝-島田-(部品破損でstop)
』
府中という街、ここに来る前に私は府中に住んでいた。
といっても東京都府中市。
ここの府中は静岡のこと。
将軍様は江戸に、大御所は駿府に。
その府中である。
街の中心にあるのが大御所様がお住まいになられていた駿府城。
ちゃんと水堀が廻っており、このお堀の風情はなかなかだったのだが。
でもこのとき、この大御所様のお屋敷跡に住まわれていたのはなんと囚人。
どういうわけか、ここに静岡刑務所があったのである。
周りに水堀があるので都合がよかったのかも。
といっても、たかがお堀。
逃げようと思えば造作もない。
そういえば、東京の府中にも刑務所があった。
この横で例の3億円事件が発生している。
府中というのは刑務所に関わりの深い名前なんてことはないだろうに。
でも城跡に刑務所というのは、まるでデリカシーがない。
戦後20年以上もたっているのに。
もちろん、いまはないはずだが。
友達の下宿に止まった。
夜は銭湯へ、そして帰りに食堂でホルモン焼きを。
府中の次が丸子。
あのトロロ汁の宿場である。
『
2010/10/22~10/24
エボルタ 東海道五十三次-道中記:: その8
島田-金谷-日坂-掛川-(東海道真ん中地点通過)-袋井-見附
』
歩いて一番怖いのは後ろから来る車。
至近で脇を通り抜けられるとゾクーとする。
一台のセドリックのライトバンが本当に体のすれすれを通っていった。
「このヤロウ」と言いかけたほど。
広い道だろう、もっと中央車線よりを走れ!
この車、少し先で止まった。
運転席から人が出てきた。
得体のしれない黒ずくめ。
ちょっと構える、オレ何かやったかな?
曰く、「私はブルーノ神父です」
なんてことはない、カソリックの神父さん。
生まれて初めて外人と接した。
流暢な日本語を話す。
「もしよろしかったら、今夜教会に泊まれます」
記憶はあいまいで、掛川だったろうかよく覚えていないが、そこの教会に来いという。
案内図をもらった。
外人と付き合うのはめんどうだなと思いながらも、興味深々でちょっと早めにきりあげて、地図をたよりに教会に行ってみた。
「ブルーノ・フォール神父」、フランス人。
東海道を歩く若者をみつけると声をかけているという。
その夜はどうも緊張して眠れなかった。
といっても疲れていたので、バタンキューとはいかなかっただけで、睡眠はとった。
後日、我が家にやってきて泊まっていった。
我が家に外人が泊まったのも、この人が最初で最後。
しばらくして、藤枝の教会に移ったと言っていた。
その後、私はオーストラリアへ行きたいと思っている、といったら、
「
あそこはおやめなさい。
白豪主義で差別がきつい。
」
と、忠告されてしまった。
なのにその忠告を破っていまはそこに住んでいる。
[◇]
ちょと気になって「ブルーノ・フォール神父」を調べてみた。
ありました。
すごい。
まさにインターネットは宝の山を掘り出す道具。
『
http://gotemba.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/post-ba54.html
2009年8月 9日 (日)
新しい神父様
2009年4月21日より復生病院付きの司祭としてフォール・ブルーノ神父が着任されました。
パリ外国宣教師の司祭で83歳になられる方だそうです。
日本語はもちろん、韓国語、タガログ語など9ヶ国語を操って、司祭として50年働らかれています。
コメント
私は51歳ですが、35年前、日本橋ー京都一人歩き旅の時、フォール・ブルーノ神父に清水の教会でお世話になりました。(その前に兄が、一人歩きでお世話になりました)
その後、食事会に誘って頂いたり、一緒に海にキャンプしにいったり、とても楽しい思い出です。(・∀・)
今は、眼科の器械や視力検査や手術の準備など医療に携わってます。
これも、何かの縁であるのかもしれません。
人助けができる仕事を今後とも続けていければと思います。
投稿: 2010年1月 4日 (月) 21時32分
』
日付からいうと84歳でまだご健在の様子です。
なを名前ですが「フォール・ブルーノ」とありますが、私はブルーノ・フォールと覚えていました。
また、このコメントによると清水とあります。
ウーン、清水だったかもしれない。
清水というと静岡の手前だが。
あいまいである、思い出せない。
清水というと「ちびまるこちゃん」だが。
さらに調べてみた。
出てきたのがこれ。
『
カトリック清水教会 Catholic Church of SHIMIZU
http://www.shimizu-catholic.jp/osirase-100500.html
フォール神父様お久しぶり そしておめでとうございます
2010年4月25日
1971年から1984年まで13年間清水教会で働いておられたパリ外国宣教会のフォール・ブルーノ神父様が叙階(司祭になられて)60周年を迎えられ、本日(4月25日)御殿場教会においてお祝いのミサとパーティーが行われました。
フォール神父様は清水教会のあと川崎の中原教会、浜松の鷺宮教会と歴任され、現在は御殿場・神山復生病院で働いておられます。
お祝いは10時からのミサで始まり かつて中原教会で一緒にお仕事されていた韓国のイ神父様も駆けつけて御殿場教会のマリオ神父様と3人での司式でした。
フォール神父様が60年間の司祭職の中でも特に印象にあるのは島田教会におられたとき、自転車旅行をしている若者たちを教会に泊めてあげて若者の友人が沢山出来たこと。
実に560人もの若者を泊めてあげたそうです。
もう一つは中原教会でのこと。当時はまだ在日韓国人の肩身が狭い時代、受け入れてくれる教会も少なかったころにフォール神父様は快く受け入れてそれがきっかけになり、その後 韓国、ベトナム、フィリピンと多くの外国人が中原教会へ集まるようになり国際ミサが実現したこと。
神父様は「日本の教会」ではなく「日本に在る教会」と強調されました。
パーティーでは 各地から集まった信者さんたちと歓談し楽しいひとときを過ごしました。
また 最近お気に入りの絵画も紹介してくださいました。
この絵画については作者の許可が取れ次第 当HPでも紹介したいと思います。
神父様は今年85歳になられるそうですが これからもお元気でお過ごしください!
』
1971年から清水の教会とあるが、私が会ったのはその数年前になる。
ということは清水の教会ではない。
掛川ではなく島田のようである。
インターネットを借りて、
「ブルーノ神父、お元気でお過ごしください」。
<つづく>
● 花いろいろ