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● 鈴鹿トンネル 1930年頃
[◇ 11月16日]
エボルタは先ほど鈴鹿トンネルを抜けた。
Wikipediaで鈴鹿トンネルを見てみる。
『
鈴鹿トンネル・新鈴鹿トンネル(国道1号)
* 鈴鹿トンネル(上り線 亀山・四日市・名古屋・伊勢方面)長さ : 276m
* 新鈴鹿トンネル (下り線 大津・京都・大阪方面)長さ : 395m
鈴鹿トンネルは鈴鹿隧道とも呼ばれトンネル銘板にも、鈴鹿トンネルとは表記されずに鈴鹿隧道と表記されている。
国道1号の当トンネルは鈴鹿山脈を南北に貫いているのに対し、新名神高速道路の鈴鹿トンネルは東西に貫いている。
新名神高速道路の鈴鹿トンネルとは約2km離れている。
* 1922年6月20日 : 鈴鹿トンネル着工。
* 1924年7月20日 : 鈴鹿トンネル開通。
* 1967年3月06日 : 鈴鹿トンネル内にて車両13台が炎上する火災事故が発生。
* 1978年11月30日 : 新鈴鹿トンネル開通。
* 1991年5月15日 : 鈴鹿トンネル改築工事完了。
』
鈴鹿トンネルが開通したのが1924年。
つまり戦前。
事故が起こったのが1967年。
そして国道1号線には新たに新鈴鹿トンネルを造ることになる。
これが完成したのが11年半後の1978年。
事故が起きた旧鈴鹿トンネルは上り専用の一方通行に、新しく作られた新鈴鹿トンネルは下り専用の一方通行になるようである。
エボルタが抜けたトンネルは走行中の車の向きからみると、旧鈴鹿トンネルのようである。
ということは、以前事故があったトンネルになるが。
残念なことに私はここを通過していない。
事故トンネルの上を歩いていた。
40年以上も昔のこと、この事故についてはあまり載っていない。
新聞記者の回顧録がありました。
『
ブン屋のたわ言
http://home.r07.itscom.net/miyazaki/bunya/tawagoto.html#suzuka
【 鈴鹿トンネル火災事故 】
四日市通信部にいる間にもうひとつ”わが国初”の事故を取材した。
「鈴鹿トンネル内車両火災」である。
”初の事件・事故”というのはたくさんの教訓を残す。
現在高速道はいうに及ばずあらゆる長大トンネルに入る手前に信号機があるのも、数十メートルおきにどちらの出口が近いかの表示があるのも、非常電話が設置されているのも、すべてこの事故と昭和54年の静岡県・日本坂トンネルの火災事故(文末にメモ)での反省から生まれたものだ。
後年、静岡支局長として赴任したのでつぶさにトンネル内を見る機会があったが、鈴鹿の事故の教訓をもっと早く生かせたのではないかと思った。
※メモ 鈴鹿トンネル火災事故
昭和42年(1967年)3月6日午前5時頃、国道1号線の三重県と滋賀県の県境にある鈴鹿トンネル(全長2446メートル)で起きた。
三重県関町側入口から31メートル入った地点で、滋賀県側へ向かっていた大型トラックの運転席下部のエンジン部から出火し、運転席を焼き、次いで積載物のスチロール製アイスクリーム容器や段ボール箱に燃え移った。
出火した大型トラックの運転手と助手は対向車のタンクローリーから粉末消火器を借りたが、使い方を知らずモタモタしている間に燃え広がった。
さらに火災を知らずにトンネル内に入ってきたクルマがつぎつぎ立ち往生し、これに引火した。
死者は出なかったが結局車両12台に延焼し、負傷者2名を出した。
我が国最初のトンネル内火災の教訓はいろいろある。
現場が県境の山中で、電話などの通報設備がなく、消防隊の到着まで1時間前後かかり、猛烈な噴煙と熱気が煙道化したトンネル内に充満した。
消防隊は呼吸保護器や耐熱服の装備が充分でなく、内部に進入できずその間燃えるに任せたため本格的な消火作業に取りかかるまで5時間を要した。
鈴鹿トンネルは鈴鹿山脈の南端に位置し、山脈を東西に貫く。
トンネルのほぼ中央部に位置する安楽峠が県境で、三重県と滋賀県を結び、中京と京阪神の2大経済圏を結ぶ大動脈だ。
鎌倉時代に鎌倉と京を結ぶ街道として発達した東海道は、江戸時代の東海道53次と呼ばれた時を経て、現在の国道1号線にいたるまでほぼ同じルートを走っている。
管内といっても距離は相当離れていた。
火災の発生は消防とほぼ同時にメディアは知るようになっている。
私も現場に駆けつけるのにそう時間はかからなかったが、中がどうなっているのか皆目見当がつかなかった。
「本記」(記事の根幹部分。発生時刻、運転手の名前、被害の規模など)は消防の発表もあるから書ける。
雑感記事(これなら”恐怖の表情で語った”式のもの)と写真がむずかしいケースだ。
運転手たちはみな脱出しているのだが、前の連中から「逃げろ!」といわれて引き返しただけで全体を把握している者はいない。
そのうち「まだ中に取り残されている」というデマを口走る者も出てきて混乱に輪をかける。
火災は中だから、外部からの写真はトンネルの入り口から立ち上る黒煙の光景ただ1種類。
最大の難問は山の中で電話がない。つまり送稿手段がないのだ。
離れた民家から支局に連絡を取ると、トンネルの反対側に大津支局や本社の社会部がいて無線機を持っているから、そちらに行けとのこと。
県境の向こうは滋賀県甲賀郡土山町だ。
山越えして合流すると山中のこととて無線が途切れてうまくつながらない。
遠くの民家まで歩いて電話を借りるほかない。
写真撮影にセスナ機が飛来したが降りられないから使い物にならない。
撮影フィルムを託すため「ヘリをよこせ」と連絡すると、現場に臨時の簡易ヘリポートをつくれという。
広場を確保してOKをだすと下りてきた我が社のヘリがローターで周りの茶畑を根こそぎ吹き上げたり、切断したりして補償交渉する羽目に。
原稿より他の雑用の方が多いくらいだ。
翌日だったか3日目だったか、ほぼ鎮火したというので撮影のためトンネルに入ることになった。
壁面が落下する危険があるような場所に今なら消防が許可しないだろうが、このときは自己責任でOKだった。
冒頭にあるように現場は三重県側、つまり私の持ち場から30メートルほど入ったところだ。
臆病な社もいて、そいつのカメラともう1台テレビ局のカメラ、計3台を持って私が入った。
懐中電灯で確かめつつ行くと猛烈に熱い。
鎮火したといっても汗が吹きだし滴るほどの熱気だ。
大急ぎでトラックの残骸をフラッシュをたいてカメラ3台分撮影して脱出した。
ところがこの写真、撮影できていなかった。
カメラに詳しい人なら分かるだろうが、肉眼で見えても、空気中の浮遊物にフラッシュ光が反射してみな煙にしか写らないのだ。
』
公式ビデオを続けます。
『
2010/10/25~10/28
エボルタ 東海道五十三次-道中記:: その9 【COP10ステージ篇】
見附-<日没>-浜松-舞阪-新居
』
浜松は大きな街であった。
というより、疲れていて歩くのがしんどかった。
まだかいな!、というので道路脇の一杯飲み屋の引き戸を開けた。
なんと、もうお客が2,3人いた。
その連中が、ぞろりと振り向いた。
「すいません、浜松は何処ですか?」
カウンターの奥のママさんいわく、
「ここは、浜松よ」
そうである、浜松である。
なんと馬鹿な聞き方をしたのだろう。
「いえ、アノー、浜松駅ですが」
「このちょっと先よ、歩いて10分くらい」
「ありがとうございます」
そうそうに退散した。
みっともない。
でも駅まで、20分は歩いたような気がしたが。
遠かった。
『
2010/10/29~10/31
エボルタ 東海道五十三次-道中記:: その10
新居-白須賀-二川
』
だいたい1日8里32kmくらい歩く。
と、近くにユースホステルがあると電話を入れて、
「今日、泊まれますか」
と聞く。
だいたい、泊まれるが、歩き終わったところからユースホステルまでのルートが問題。
バスなどうまく接続していて近くまでいってくれればいいが、そうばかりともいえない。
あるときのこと、なんとかユースホステルにたどりついたはいいが、翌朝、前の日に歩き終わったところまで戻らねばならない。
どうしようかと思っていたら、九州一周のツーリングにいく2人組がいて、ホンダの125ccに乗っていた。
無理に頼み込んで乗せてもらった。
数キロのことだから向こうも聞いてくれた。
こういうラッキーなこともある。
そのころは、ヘルメット着用などは義務付けられていなかった。
『
2010/11/01~11/04
エボルタ 東海道五十三次-道中記:: その11
二川-吉田-御油-赤坂-赤坂-藤川-岡崎
』
あるとき、女子高校生の2人組に出会った。
同じように東京から京都までである。
卒業記念で歩いているという。
日程は20数日間。
一日のスケジュールが正確に作られていた。
まだ高校生の身分のため学校側がそうしないと許可しなかったとのこと。
そして、泊まる街がきまると、そこにある学校に手紙を出して、
「卒業記念で東海道を歩きます。つきましては宿泊所をご紹介ください」と。
大半、okの返事をもらい、宿泊所を世話してくれたという。
そういう宿泊施設のない街では、教頭先生の自宅に泊まることがあるとも言っていた。
いろいろ手はあるものである。
『
2010/11/05~11/07
エボルタ 東海道五十三次-道中記:: その12
岡崎-池鯉鮒(知立)-鳴海-宮
』
いよいよ、
「旅も終盤戦に突入!!」
とのことである。
お話の途中ですが、突然、割り込みが入ります。
「これ何?」
クリックすると大きくなります。
『
』
「豊明」とは鳴海宿の近くに位置する街である。
ここから京都まで2日で駆け抜けようというスケジュールです。
● 鳴海宿
● 宮宿
「宮」とはその名の通り熱田神宮のあるところ。
駅伝ファンなら忘れられない場所。
全国大学駅伝のスタート地点である。
ここから伊勢神宮までがいわゆる「熱伊駅伝:あついえきでん」である。
今年の優勝校は早稲田大学。
久しぶり、渡辺康幸以来ではないだろうか。
2位は職人集団・駒沢大学、そして3位は柏原を有する東洋大学。
ということは、箱根もこの3校の激突の可能性が強い。
もう一つ熱田神宮の話を拾うならなんといっても織田信長が今川義元を桶狭間で撃った時、必勝祈願した神社。
この一戦で日本の歴史は大きく変わる。
一気に戦国へとなだれ込んでいく。
箱根駅伝は「下克上」という。
桶狭間の戦いまさに下克上であった。
宮から桑名までは海上七里の約28kmである。
よって旧道はないので、1号線を一日ほどかけて歩くことになる。
エボルタは8日、9日の2日をかけている。
『
2010/11/08~11/10
エボルタ 東海道五十三次-道中記:: その13
宮-桑名-四日市
』
● 桑名宿
四日市といえば日本になだたる公害都市だった。
石油化学工業の発展がもたらした四日市コンビナートは、中学校のころは教科書にもうたわれ日本経済の輝かしい成果であった。
それが公害都市へとイメージを変えていく。
都市公害といえば騒音。
騒音規制が強くなり静かになった。
もう一つ出てきたのが自動車排気ガス。
「牛込柳町」という町の名前を覚えておられる方はおられるでしょうか。
「牛込柳町鉛中毒事件」で検索できます。
そこに住んでいた友達がいた。
いわく、「何もない、迷惑だ」。
『無鉛ガソリン ‐ 通信用語の基礎知識
http://www.wdic.org/w/GEO/%E7%84%A1%E9%89%9B%E3%82%AC%E3%82%BD%E3%83%AA%E3%83%B3
1970(昭和45)年、東京都新宿区の牛込柳町交差点付近で、鉛中毒事件が発生した。
これは、本邦初の、沿道大気汚染事例だとされている。
集団健診で住民に鉛中毒が発見された後、その原因がガソリンに添加された鉛によるものだとの空説が飛び交った。
当時のマスコミも、これを煽りに煽り、結果として有鉛ガソリンは廃止せざるをえなくなった。
しかし、この交差点は実はそれほど交通量が多くはなく、実際に有鉛ガソリンの影響である可能性は、殆どないことが明らかとなったのである。
毒性があるのは事実なので、廃止するに越したことはないが、それで誤報したことが正当化されるわけではない。
今も昔も変わらぬ、マスコミのミスリード事件であった。
』
牛込は隣町であった。
公害が騒がれはじめた頃で、そのためか四日市では空ばかりながめて歩いた。
公式ダイジェストを続けます。
『
2010/11/11~11/14
エボルタ 東海道五十三次-道中記:: その14
四日市-石薬師-庄野-亀岡-関
』
<つづく>
● 花いろいろ