● 2008年12月16日 朝日新聞
3,4日前のことである。
ネッテイングしていたら、間寛平のアースマラソンが出てきた。
おっと、びっくり。
「418日目」であり、トルコにいた。
ユーチューブであり、417日目のランニングをダイジェストで10分弱にまとめてあった。
気温マイナス17度という。
「よく、やるな!」
彼が2年ほどかけて世界を駆けるというのは知っていた。
上の新聞記事の切抜きが日本から送られてきたからである。
わかり易くタイピングしてみよう。
『
なんで地球一周?
3年前、車の運転中にひらめいた。
「家の玄関を右に出たら、一周して左から、ただいまと帰ってこよう。」
頼るのは自分の脚とヨットだけ。
17日に大阪を出発し、ランニングで千葉・鴨川へ。
ヨットで太平洋を渡り、北米大陸、大西洋、欧州、アジアを経て、約2年半後に日本に戻る。
走るのは2万キロ、ヨットは1万6千キロ。
「70に向かい始めると体力的にできへんから、やはり目立ちたいんですよ。『目立ちたいのー』って」
力の抜けた寛平調の声色に、思わず笑ってしまう。
本人は笑えない状況だ。
鉄人マラソンなどで走りは経験豊富だが、ヨットは未経験。
ゼロからの出発。
「50代ではなかなか、頭入らないんですよ」なんて弱音は命にかかわる。
講習では怒鳴られまくった。
ヨットは全長11mの「エオラス(風の神様)号」。
もとマネージャーで20年来のつきあいがある比企啓之、よしもとデブロップメンツ社長(45)の持ち物だ。
航海には比企さんも同行し、4時間交代で船を操る。
太平洋上は約2カ月間。
「冬の海やから荒れていると思うし、余裕はないと思う」。
ヨットの手摺にゴムを巻き、荒れて倒れても頭を打たないような準備も施した。
出会いも楽しみにしている。
「米国では『フェー』とか『アヘ』とか擬音がすごくうけるんですよ。日本人が『祇園』が好きですけど」
マイペースぶりが頼もしい。
』
このあとの彼の消息は知らなかった。
興味がないため日本のスポーツ・ニュースや芸能ニュースは必要なもの以外は見ていないのである。
だから、その後をまるで知らなかった。
こういう形で放送されているなんて、思いもよらなかった。
これ実にすごいことである。
インターネットの恐ろしさである。
こんなことができるなどとはまるで考えもしなかった。
その日の行動をダイジェストして、翌日のブログに載せるのである。
分かっていたら、毎日見ていたのにと思うがもう遅い。
すでに400日を超えている。
丸々1年を越しているのである。
これまでだと、だいたいこういうのは1月分とかまとめてテレビや新聞に載るが普通で、いま寛平はどの辺にいるのだろうかと、ウキウキドキドキで待ち焦がれるのである。
だが、昨今のインターネット事情は、ほぼリアルタイムで情報が伝わってくる。
えらい世界になったもんだ。
どうにも、老人には理解の届かぬ世の中になったとしか考えようがない。
長生きはつらいものがある。
世界が格段に狭くなっている。
なのに知らないことだけがどんどん積み重なってくる。
それから毎日見ている。
公式ブログがあるのだ。
知っている人は知っていると思うが、紹介しておきましょう。
『
公式BLOG>間寛平アースマラソン KANPEIEARTH Marathon
http://www.earth-marathon.com/
』
もし、これまでのマラソン・ヨッテイングの経過をダイジェストで見たい方はこちら。
『
ダイジェストムービー
http://www.earth-marathon.com/digest.html
』
ちなみに、この寛平のチャレンジが「アースマラソン」と名づけられていることも知った。
wikipediaを覗いてみましょう。
『
アースマラソン(EARTH MARATHON)は、間寛平が芸能活動を休止して、マラソンとヨットで地球を一周するプロジェクトである。
2008年12月17日に大阪府大阪市をスタートして、2009年1月1日には千葉県鴨川市からヨットで太平洋横断に挑戦する。
その後、アメリカ合衆国 - 大西洋 - ヨーロッパ - 中央アジア - 中華人民共和国を経て、2011年春のゴールを目指す。
移動距離は陸上2万km、海上1万6000kmの、計3万6000kmに及ぶ。
アメリカでは、ロサンゼルス、シカゴを通過し、ニューヨークを目指す。
ニューヨーク - ル・アーヴル間の大西洋をヨットで横断。
ヨーロッパでは、当初予定のスペインのマドリードを通過せずにフランスに上陸し、デンマークのコペンハーゲンを目指す。
そして、2009年10月2日にコペンハーゲンで行われるIOC総会の2016年夏季オリンピック・パラリンピックの開催都市発表の瞬間に立ち会った。
寛平は、2016年の東京オリンピック・パラリンピック招致大使に任命されていた。
寛平の日々の記録映像は公式サイトに掲載され、そのVTRはテレビ番組や動画サイトなどにも提供される。
また、動画の著作権は、非営利目的ならコピー・流布が自由な「クリエイティブ・コモンズ(CC)ライセンス」が採用され、個人がブログなどで自由に利用できるようになる。
日本テレビ系列のニュース番組や情報番組を中心に現地からの生中継も行っており、福留功男や羽鳥慎一などが司会・ナビゲーターを務める特別番組でも放送・報告されている。
万全のバックアップ体制で臨むものの、寛平は吉本興業が自身に対し生命保険をかけたのに関して「死ぬのを期待されている」と嘆いていた。
実際に通過するコースには荒れた冬の太平洋や治安上の問題がある中東地域、さらに、中国による核実験で核汚染が懸念されているウイグルがあり、寛平の生命や健康が心配されている。
2010年1月4日、立ち寄ったトルコにて寛平が前立腺がんを発症していることが判明。
同13日に公表。
専門医の判断により続行には問題ないとされ、今後は、治療を行いながら本プロジェクトを続けていくことが明らかになった。
』
初日は大阪から京都までである。
そして、昨日までで鴨川のヨットハーバーまでみた。
だいたい一日40キロから55キロ走る。
すごい。
毎日走ってついに鴨川まできてしまった。
約650キロ。
でも十数日、まだ400日分が残っている。
ちなみに間寛平のプロフィールを公式ブログから。
『
間 寛平 1949年高知県生まれ。
70年に吉本興業に研究生として入社。
74年には、なんば花月で初の座長公演を努める。
同年にリリースしたレコード「ひらけ!チューリップ」で大ヒットを記録した。
その後も憎めないキャラクターと不条理なギャグ"アメマ""かいーの"などを連発して、関西で絶大な人気を得る。
89年頃より東京に進出し、数多くのバラエティーに出演。
さらに、演技者としてもその個性を発揮し、91年には「ファンキー・モンキー・ティーチャー」で映画初主演を果たした。
以降は役者としての活動も増え、NHK大河ドラマ「琉球の風」(93年)やNHK朝の連続テレビ小説「ぴあの」などに出演。
94年の主演作「罪と罰~ドタマかちわったろかの巻」では井筒和幸監督とともにコメディとシリアスの狭間で型破りな刑事アクションを作り上げた。
01年吉本興業のタレント結成したRe:Japanで「明日があるさ」をリリース、同名ドラマにも出演した。
また、同年に主演したNHKドラマ「悪意」では、渋みのある刑事の演技を見せた。
02年には本格サスペンス映画『OUT』で初の悪役を演じた。
そして、吉本新喜劇以外での舞台活動も精力的に行い、00年にベンガル、大竹まことと結成したユニット"ダイオキシンブラザーズ"も公演を続けている。
受賞歴は、91年「ユーモア大賞」ACC賞、99年度「上方お笑い大賞(読売テレビ)」大賞など受賞している。
1986年に始めたマラソンは有名で、ギリシアの鉄人マラソン"スパルタスロン"では、246kmを過去に3度も完走するほどの脚力を誇っている。
本 名:間 重美 はざま しげみ
血 液 型 :AB型
身長・体重:164cm・60kg
趣 味:マラソン、ゴルフ、競馬、野球、(ダイエーファン)
出 身 地 :高知県宿毛市
B・W・H :90cm・79cm・96cm
靴のサイズ:26cm
東京オリンピック・パラリンピック招致大使
』
なを、寛平が走るにもっとも勇気を与えられるのは、ブログに書き込まれた視聴者のコメントだそうです。
異国の地を走る寛平にとっては、はるかな日本からの便りが何よりの糧なのかもしれません。
チャレンジはまだ1年少々続きます。
ここまでの日々のビデオとともに、じっくりと残りを楽しませてもらいます。
なにかあったら、「つづき」を書きます。
● 花いろいろ